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・・・・・紅しだれ桜たちの花むらが、たちまち人を春にする。これこそ春だ。垂れしだれた、細い枝々のさきまで、紅の八重の花が咲きつらなっている。そんな花の木の群れ、木が花をつけたというよりも、花々をささえる枝である。
・・・・・・・・・・
そして、八重の花の紅には、ほのかなむらさきがうつっているようだった。
川端康成・著『古都』 / 新潮文庫
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川端康成の小説『古都』から、文章をお借りいたしました。
次に、谷崎潤一郎の著作『細雪(ささめゆき)』から、
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・・・・・忽ち夕空にひろがっている紅の雲を仰ぎ見ると、皆が一様に、 「あー」 と、感歎の声を放った。この一瞬こそ、二日間の行事の頂点であり、この一瞬の喜びこそ、去年の春が暮れて以来一年に亘って待ちつづけていたものなのである。彼女たちは、ああ、これでよかった、これで今年もこの花の満開に行き合わせたと思って、何がなしにほっとすると同時に、来年の春も亦この花を見られますようにと願うのである・・・・・・・。
谷崎潤一郎・著『細雪』/ 新潮文庫
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ついこの前、宮澤賢治の文章をお借りして、「ボクもサクラは好きぢゃない」とか云っちゃいましたが、舌の根の乾かぬうちに、この度のブログは、弊社の八重紅枝垂桜だけになっちゃいました。
引用させていただきました川端康成と、谷崎潤一郎の小説の一場面の舞台は、どちらも京都市の平安神宮の八重紅枝垂桜です。
その平安神宮の八重紅枝垂桜は、京都の植藤造園の佐野藤右衛門さんの大著『さくら大観』によると、初代仙台市長の遠藤庸治さんが寄贈した「遠藤櫻」といわれるサクラですが、もともとは伊達政宗が京都から持っていったサクラです。
新緑の季節、花満開の時、紅葉の頃、圃場に雪が降った度ごとに「あー」とか「おー」とか「うおー」とか、乳児と変わらない表現力しかなく、AIとは比べようがないほど語彙力が無くとも、なにかに感動できる能力は、乳児や幼児と同等。AIなんかよりもダントツに上の仲田種苗園の門下生のボクには、川端康成の『古都』と谷崎潤一郎の『細雪』を読んだあとに、弊社の農場で咲く八重紅枝垂桜を見たときに、二人の小説家が文章にしたサクラを見た時に「あー」と、納得いたしました。
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千本の花盛り雲路や雪に残るらん
(花の中を行けば、上は雲のようで、下は落ち花が雪のように名残をとめる)
世阿弥・著『西行桜』
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ソメイヨシノ
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一千九百廿五年 五月五日 晴
・・・・・・・
・・・・・ぼくは桜の花はあんまり好きでない。朝日にすかされたのを木の下から見ると何だか蛙の卵のような気がする。それにすぐ古くさい歌やなんかを思い出すしまた歌など詠むのろのろしたような昔の人を考えるからどうもいやだ。そんなことがなかったら僕はもっと好きだったかも知れない。誰も桜が立派だなんて云わなかったら僕はきっと大声でそのきれいさを叫んだかも知れない。僕は却ってたんぽぽの毛のほうを好きだ。夕陽になんか照らされたらいくら立派だか知れない。
宮澤賢治・著『或る農学生の日誌』/ 宮澤賢治全集 第十巻 童話? 筑摩書房
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宮澤賢治の著作『或る農学生の日誌』から、文章の一部分を、お借りいたしました。
弊社の農場では、ヤマザクラとタキザクラを主力商品として扱っており、いまこのブログをお読みになられている方の中では、花の季節が待ち遠しく思い、題名の隅っこにあった「花」という漢字に惹かれ、クリックまたはタップされたのにもかかわらず、冒頭からサクラを否定した宮澤賢治の文章に、戸惑われたかと思われます。
賢治の、他人が素晴らしいと思っていることに同調したくはないという気持ちは、仲田種苗園の門下生の中でダントツにへそ曲がりで、つむじ曲がりなボクとおんなじで、ボクもサクラの花は、あんまり好きでないんです。
だからといって、タンポポではなく、アオダモの毛のような花のほうを好きだ♡なんてことは、一度として心にも思ったことはないし、口が裂けても言わないけれど、夕陽になんか照らされたアオダモの花を見たら、アオダモもそんなには悪くはないかな、と少しだけ思ったりもしますが、もし今まで、誰もアオダモが立派だなんて云わなかったらボクはきっと大声でそのきれいさを叫んだかも知れません。たぶん。
アオダモ
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誰も桜が立派だなんて云わなかったら
僕はきっと大声でそのきれいさを叫んだかも知れない。
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もう一度、宮澤賢治の『或る農学生の日誌』の中の一節を、お借りして、誰も立派だなんて云ったこともなければ聞いたこともないと思う、その花のきれいさを大声で叫びたい、弊社の農場で毎年、誰かにもてはやされることもなく、小さな花を咲かせ散らせてゆく「雑木」の花を、お届けしたいと思います。
ハナノキ 雄花
カツラ 雌花
ウグイスカグラ
アカシデ 雄花
イロハモミジ
クロモジ
ニシキギ 雌花
アオハダ 雄花
オトコヨウゾメ
サワフタギ
ツリバナ
ムラサキシキブ
オオウラジロノキ
仲田種苗園の農場には、ボクが撮影するタイミングを逃してしまっている「雑木」の小さな花が、まだまだ沢山あると思われますので、また来年の今頃にハッピーツリーのブログにアップできたら、と思います。
(今回もアオダモを小馬鹿にしたようなブログになっちゃったので、来年まで破門されていない場合。)
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白い自由画
「春」といふ題で
私は子供達に自由画を描かせる
子供達はてんでに絵具を溶くが
塗る色がなくて 途方に暮れる
ただ まつ白な山の幾重りと
ただ まつ白な野の起伏と
うつすらした墨色の陰翳の所々に
突刺したやうな
疎林の枝先だけだ
私はその一枚の空を
淡いコバルトに彩つてやる
そして 誤つて
まだ濡れてゐる枝間に
ぽとり!と黄色を滲ませる
私はすぐに後悔するが
子供達は却つてよろこぶのだ
「ああ まんさくの花が咲いた」と
子供達はよろこぶのだ
『丸山薫詩集』 / 思潮社
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丸山薫の詩集『北国』の中から、「白い自由画」という詩を、お借りいたしました。
この詩は、丸山薫が疎開先の山形県で小学校の先生をしていた頃の作品です。
自由画で春という題なのにもかかわらず、子供達は雪の風景を模写するだけだったので、丸山薫が白黒の画の空を青で彩るのに手を差し伸べたあとに黄色を、おそらく地面に配色しようとしたところ、誤って林の枝先に黄色の雫が落ちて、それを見た北国の子供達は、マンサクの花が咲いたと喜び、春への想像力が開花されたような詩です。
仲田種苗園の農場でも、マンサクがまず先に花を咲かせます。
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「サンタ、マグノリア、
枝にいっぱいひかるはなんぞ。」
向ふ側の子が答へました。
「天に飛びたつ銀の鳩。」
こちらの子が又うたひました。
「セント、マグノリア、
枝にいっぱいひかるはなんぞ。」
「天からおりた天の鳩。」
宮澤賢治・著『マグノリアの木』/ 宮澤賢治全集 第九巻 童話? 筑摩書房
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宮澤賢治は、短編小説『マグノリアの木』で、子供達が木の枝に光っているものは何か、と掛け合い「銀の鳩」、「天の鳩」と答えた、木の枝にいっぱい光っている花を、鳩にたとえた花は、コブシの花でした。
そんな「銀の鳩」、「天の鳩」にたとえられたコブシの大木が、仲田種苗園の農場内にあるのは、創業時代に需要のあった植木だったのか、先代が農場に開拓する際に残した樹であったのか、今ではもう、お話を聞くことが叶わないのですが、ボクがとても好きな花で、弊社の農場のコブシは毎年、木の枝いっぱいに、銀の鳩、天の鳩がとまります。
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僕はもう観念して、しばらくじっと目をあわせていた。とうとうこの目でみられなかった、雪国の春にまっさきに咲くというその辛夷の花が、いま、どこぞの山の端にくっきり立っている姿を、ただ、心のうちに浮かべてみていた。そのまっしろい花からは、いましがたの雪が解けながら、その花の雫のようにぽたぽたと落ちているにちがいなかった。
堀辰雄・著『大和路・信濃路』 / 新潮文庫
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山の辺に茂る草叢から、ふと私に呼びかける花があった。手折ってしみじみとみつめれば、小さな花は美の化身のように、私にさまざまのことを語った。
ご存じの方もあるでしょう、曙草を、
私は知らなくて、あまりのいとしさに植物図鑑で調べたのだった。
・・・・・
わずか一センチたらずの花瓣にかくも精緻な装いを凝らしたのは誰か、造化の神は何一つ無意味なものをおつくりにはならないはず。人知れず咲き、人知れず散るべき花にたまたま私は呼びとめられた。そして道の辺に立ちつくすほどその完璧な造形に驚嘆したのだ。
・・・・・
・・・自然がこのように野を彩り、踏みにじってかえりみもしないであろう小さな野の花を至高の美に形づくるのはなぜだろう。そこにはきっと深い神の意図があるはずである。
我々はその一滴をも汲みとるために、小さな花の語る声に耳を傾けたいと思うのだった。
志村ふくみ・著『語りかける花』 / 筑摩書房
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染織の道に入ってから、草木に呼びかけられ、常に耳を傾け対話を続けている染織家の志村ふくみさんの『語りかける花』から文章をお借りいたしました。
野の花ファームに咲くアケボノソウ
次に、晩年に街路樹が歴史を語り出したことを聞きとり、庭に植栽した植木とも会話のできた作家の芹沢光治良さんの著作『人間の意思』から、
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・・・それが二、三米(メートル)ぐらいの高さだったのに、いつの間にか五十八年もたって、こんなに素晴らしい樹に成長したのに、こちらは杖をついても立っていられずに、老楓の幹によりかかっている始末だった。人間は九十を過ぎると、こんなに老いぼれるが、お前は、ここで最も年上らしいが、堂々としているが、いくつかと、問いかけた。すると老楓は答えた。・・・
・・・・・
・・・二、三米しかなかった植木を、みな見上げるほどの大木にそだてた大自然のことで頭がいっぱいだった。
芹沢光治良・著『人間の意思』 / 新潮社
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光治良さんに老楓が、どのように答えたのかは、是非、『人間の意思』を読んでいただきたいと思いますが、いつの時代でも、物言わないものが発するものを聞きとれる方はおられるようです。
ここで雑木の庭を提唱した飯田十基さんは、
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木も草も竹も、いや石だって育つもんですよ。できて何年たつとこの木がこう育つ、この木の芽の色はこう、あの木の芽の色はああ、と芽吹きの色まで頭に置いて作るのがほんとの庭ってもんです。
斉藤隆介全集8 職人衆昔ばなし / 岩崎書店
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ここでは「石だって育つ」と述べられ、飯田さんも石にさえ命があり生きていると感じとられていたようです。
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一本の老木が口を開いた
聞いたこともない
低層音のささやきだった
低層音だがその声の響きは
ズンと全身の細胞に沁みた
倉本聰・著『古木巡礼』
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脚本家の倉本聰さんは『古木巡礼』という著書で、樹木が発するものを文章に表現されました。
写真は仲田種苗園の商品、ハッピーツリーの原型ともいえる
ケヤキ、エノキ、モミジの組み合わせの「やまびこテラス」。
このたびのハッピーツリーのブログでは、草や木の声を聴くことができる方たちの話を、少しだけ寄せ集めてみました。
そして、たぶん、この話は人によっては、ただの妄想だと断定してしまうと思われますが、困難を体験した方が語る世界観に、いつだってボクは魅了されます。
そんな仲田種苗園の門下生のボクも、ドラえもんの四次元ポケットから出てくるアイテム「ほんやくコンニャク」を使用しなくても、いつしか植木の声を聴くことができたらいいな♪と思っております。
(あっ、でも植木業界で人気絶頂のアオダモの声とかはマヂで聞きたくないです。草木と会話のできる能力が身についたとしてもアオダモは無視。)
本年も、弊社の植木が、植栽された場所で、健やかに成長してゆくことを願います。
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雪と水とのまつしろな二相系をたもち
すきとほる つめたい雫にみちた
このつややかな松のえだから
わたくしのやさしいいもうとの
さいごのたべものをもらつていかう
宮澤賢治詩集 ・「永訣の朝」 / 谷川徹三編 / 岩波文庫
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白砂青松ガーデンでは、雪が降り積もりました。
堀取りの合間、長谷川等伯が描いた松林図屏風の水墨画のような世界に見とれました。
能登に生まれた絵仏師・長谷川等伯が松林図屏風を描いたのは、後継者としていた長男が亡くなってからのことです。
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松林図屏風 左隻
松林図屏風 右隻
長谷川等伯
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そして冒頭の宮澤賢治の詩は、賢治の良き理解者であった妹トシの臨終間際の願いを叶えるため、賢治が松の枝葉に積もった雪を手折った情景です。
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さつきのみぞれをとつてきた
あのきれいな松のえだだよ
おお おまへはまるでとびつくやうに
そのみどりの葉にあつい頬をあてる
そんな植物性の?い針のなかに
はげしく頬を刺させることは
むさぼるやうにさへすることは
どんなにみんなをおどろかすことか
そんなにまでおまへは林へ行きたかつたのだ
宮澤賢治詩集 ・「松の針」 / 谷川徹三編 / 岩波文庫
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賢治がとってきた雪の降り積もった松の枝葉に、トシが頬ずりをしたのはアカマツだと思います。
きっと賢治はマツの霊験に授かりたく、器にもならない雪を乗せたマツの葉を選んで、妹のトシに渡したのです。
そして長谷川等伯は、息子を失った悲しみを乗り越えることは、描き続け描き始めることであり、その対象物がマツであったのは、マツが発するものを表現したかったのかもしれません。
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中でも圧巻だと思ったのは、雪の景色であった。朝、戸をあけて見ると、ふわふわした雪が一、二寸積もって、全山をおおうている。数多い松の樹は、ちょうど土佐派の絵にあるように、一々の枝の上に雪を載せ、雪の下から緑をのぞかせる。楓の葉のない枝には、細い小枝に至るまで、一寸ぐらいずつの雪が積もって、まるで雪の花がさいているようである。その他、檜とか杉とか椎とか樫とか、一々雪の載せ方が違うし、また落葉樹も樹によっては枝ぶりが違い、従って雪の花の咲かせ方も趣を異にしている。それを見て初めて私は、昔の画家が好んで雪を描いたゆえんを、なるほどと肯くことができたのである。四季の風景のうちで、最も美しいのはこの雪景色であるかもしれない。
和辻哲郎随筆集 ・「京の四季」/ 坂部 恵編 / 岩波文庫
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松は海風をうけなれて、陸のほうへやや傾き、枝葉もあらかた陸にむかっているために、却って果敢に海に対しているようにみえた。日はあたかもその松の梢にあたり、枝のあいだに火を放ったようにきらめいていた。
美代は思い出した。
この松である。今日足が自然と浜離宮公園へむかったのも、この松に誘われたのに違いない。
三島由紀夫・著『離宮の松』 / 三島由紀夫短篇全集4 / 講談社
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三島由紀夫の『離宮の松』から文章を、お借りしました。
『離宮の松』で描かれたマツはクロマツですが、本年も、たくさんのお客さまの足が自然と仲田種苗園の玉川農場へ向かったのも、弊社のアカマツに誘われてしまったのに違いないと思われます。
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この山は流紋凝灰岩でできてゐます。石英粗面岩の凝灰岩、大へん地味が悪いのです。赤松とちひさな雑木しか生えてゐないでせう。
・・・・・あすこの割合上のあたりに松が一本生えてませう。平ったくてまるで潰れた蕈(きのこ)のやうです。どうしてあんなになったんですか。土壌が浅くて少し根をのばすとすぐ岩石でせう。下へ延びようとしても出来ないでせう。横に広がるだけでせう。ところが根と枝は相関現象で似たやうな形になるんです。枝も根のやうに横にひろがります。
宮澤賢治・著『台川』/ 宮澤賢治全集 第十巻 童話? 筑摩書房
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次に宮澤賢治の『台川』から文章をお借りして、「たいへん地味の悪い」場所に、約30年前、玉川村の地域の方たちが植林したアカマツ。
玉川村のシンボルツリーは、アカマツです。
玉川村の土地の風土が織りなして生育するアカマツは、伐採して製材したあとの狂いが少ないうえカビが生えにくいので建築材として、たいへん優れております。
玉川村の方たちが植林したこの場所に、その後、ソーラーパネルが設置されるためアカマツが伐採されるところを、弊社で運営管理をすることとなり、仲田種苗園の玉川農場となりました。
さきほどの宮澤賢治の『台川』から
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土壌が浅くて少し根をのばすとすぐ岩石でせう。下へ延びようとしても出来ないでせう。横に広がるだけでせう。ところが根と枝は相関現象で似たやうな形になるんです。枝も根のやうに横にひろがります。
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アカマツが植林された玉川農場は、土壌が場所によっては浅く、かと言って横に広がることもままならない所に植栽されております。
そういうわけなので、「もやしっ子」のように育ってしまったアカマツですが、そんなことはありません。
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・・・・・荒れ地に育つことの得意な松は「防風林」や「防砂林」としては非常に適切な木だ。松は不毛な砂地でも懸命に努力しながら生き延びる。ほとんどの樹木が入れない、時には海浜植物さえ育たないところにでも、松は植えられ育てられている。
稲本正・著『森の形 森の仕事』
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樹木および木工や建築に造詣の深いオークヴィレッジの創設者、稲本正さんの著作から引用させていただきました。
そこで「松は不毛な砂地でも懸命に努力しながら生き延びる」という文章を、お借りすれば例え、もやしっ子と言われても、それぞれ個性のある芯のある強いアカマツに育っております。
ここまで玉川農場のアカマツの表面だけを、ご覧いただいたところで、弱音と愚痴を吐露するようで、たいへん心苦しいのですが、
再び宮澤賢治の『台川』から
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土壌が浅くて少し根をのばすとすぐ岩石でせう。
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農場とはいえ、地面が岩石なのです。
アカマツの堀り取りには、必ず、はつり機(岩石を砕く機械)とバックホーを併用しないと堀り取ることがままならなず、人力で植木を運搬させるのが困難なアカマツです。
そういう農場のアカマツなので材料検査時に、お客様を玉川農場に、ご案内し、お客様の貴重なお時間の中で、弊社のアカマツを選んで喜んでくださった笑顔を見た時ほど、一瞬にして体中に戦慄が走り、憂鬱感と虚脱感と絶望感に心が満たされます。
・・・・・あっ、すみません。間違えました。「お客様の笑顔を見た時は、うれしさと喜びに包まれ身体中が歓喜に舞いあがります。」に訂正でありますです。
是非また仲田種苗園の玉川農場の松原に足を運んでくださいませ。
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『墨彩詩書画 風のいろ 土のこえ』 / 発行・画虫居
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静岡県に生まれ、福島県船引町にアトリエをかまえた画工人・渡辺俊明さんの作品を使用させていただきました。(弊社の植木が植栽された八幡屋さまでは、渡辺俊明さんの作品をご覧になることができます。)
ここで渡辺俊明さんの「天地のおくりばな」という言葉を、お借りして、野の花ファームから、今年一年の、天地のおくりばなの四季を、お届けします。
野の花ファームの冬
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やつぱり一人がよろしい雑草
やつぱり一人はさみしい枯草
種田山頭火・著『草木塔』
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花皆枯て 哀をこぼす 草の種
花はすべて枯れ、地にこぼれた草の種が哀れを感じさせる。
『芭蕉全句集』・角川ソフィア文庫 / 雲英末雄・佐藤勝明 訳注
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野の花ファームの春
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ちよぼちよぼと 若草生える 小庭かな
正岡子規
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竜胆、撫子、藤袴、女郎花、山杜若、松虫草、吾亦紅、その他、名を知らぬ菊科の美しい花などの咲乱れてゐる高原の細い路を二人は急がず登つて行つた。
志賀直哉・著『暗夜行路』
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野の花ファームの夏
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百合消えて なほうら山の 夏つづく
富安風生
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野の花ファームの秋
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秋の野に 匂ひて咲ける 藤ばかま 折りて贈らん その人なしに
良寛
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現代で、フジバカマを贈られて喜んでくれる人がいるのかどうか定かではありませんが、人よりも蝶の方が喜んでくれるようで、フジバカマが咲くと、たくさんの蝶が吸蜜しに来ます。
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吾木香 すすきかるかや 秋くさの さびしききはみ 君におくらむ
若山牧水
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年上の人妻の女性に恋をした牧水の恋の詩。
叶わぬ恋の牧水の、ありったけの寂しさをうたったもの。
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女郎花 土橋を二つ 渡りけり
『漱石俳句集』 / 坪内稔典・編 / 岩波文庫
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橋をふたつ渡っても、オミナエシが咲いていたという句。
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酔うて寝ん 撫子咲ける 石の上
松尾芭蕉
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紫の ふつとふくらむ 桔梗かな
正岡子規
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野の花ファームから四季と花たちを、簡潔に、お届けいたしました。
野の花ファームの定点観測は、植木生産担当より、気の向いたときにアップデートをしていく予定です。
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花を踏まない馬
手紙をありがとう。
昨日、ぼくは馬に乗って、この町の郊外の野原に行った。朝の露に濡れた草の葉がきれいで、そこを馬はゆっくりと歩いてゆく。しばらく行くうちに、草の間に小さな花が目立つようになった。 はじめは緑一色だった原っぱが、次第に花が増えて、やがて地面はすっかり小さな赤や黄色の花でおおわれた。
風に花がゆらゆらと揺れる。それを馬の上から見て進んでゆくうちに、ぼくは馬がちゃんと地面を踏んで歩いていないことに気づいた。足音がしない。宙に浮いているんだ。花があまり綺麗だから、馬はそれを踏むのが嫌で、足を地面につけないように歩いている。そんなことができる馬のことをぼくはすごく尊敬した。
老いて少しだけ寂しそうな顔をした馬だけど、宙を歩くなんて魔法をどこでおぼえたんだろう。広い野原。花々が陽光と風の中で揺れている。馬もぼくもその花の上を進んでゆく。とてもいい気持ちだった。
きみもいればよかったのにと思ったよ。
バイバイ
池澤夏樹・著『きみが住む星』
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花踏まず モミジ喰みする お馬さん
作・酒の本の呑麻呂
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霜葉紅於二月花
霜葉は二月の花より紅なり
霜のために紅葉した葉は、春二月に咲く花よりも赤かった。
杜牧
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仲忠は息苦しかった。歌の中の紅葉と北山の紅葉は違っていた。歌は約束事でもあり、歌の詞の紅葉と本当の紅葉とが必ずしも一致しなくてもよい。誰一人あのような色とりどりの紅葉を実際に眼にした者はいないだろうと仲忠は思い、その時、その息苦しさに耐えられず、紅葉の中にある音、梢の中にある音にむかって琴を力いっぱいかき鳴らした。
中上健次・著『宇津保物語』
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和歌山県の小説家、中上健次は、平安時代の長編小説『うつほ物語』という古典を、翻案し再構築しようと試みましたが、1992年に志半ばの46歳で夭折され未完で終わってしまった『宇津保物語』から引用いたしました。
そして、「誰一人あのような色とりどりの紅葉を実際に眼にした者はいないだろう」という文章を、お借りして、仲田種苗園の植木生産者である僕たちは、モミジばかりではない錦秋を毎年、満喫いたしております。
アカシデ
カマツカ
来年の花芽をつけているマンサク。
食用できる実と紅葉のナツハゼ。
冬芽が可愛いネジキの紅葉。
葉が色づくと香りはじめるカツラの葉。
男、用済み。ぢゃなくてオトコヨウゾメ。
ドウダンツツジ
ドウダンツツジの紅葉は生花でも使われます。
希少なヤマモミジ。
弊社の商品である、ハッピーツリーだけでも、錦秋を楽しめます。
(写真は、クロモジとオオモミジとニシキギ)
アカマツも黄葉します。
コナラ
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楢の類いだから黄葉する。黄葉するから落葉する。時雨が私語く。凩が叫ぶ。一陣の風小高い丘を襲えば、幾千万の木の葉高く大空に舞うて、小鳥の群かのごとく遠く飛び去る。
国木田独歩・著『武蔵野』
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カエデだけで、紅葉を楽しめることができると思ってはほしくはない、国産雑木の類いを扱っている仲田種苗園では、このような「色とりどりの紅葉を実際に眼にした者はいないだろうと思い」、「その息苦しさに耐えられず、紅葉の中にある音、梢の中にある音にむかって」、今日もスコップを力いっぱい振りおろしています。
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うらを見せおもてを見せてちるもみじ
良寛
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J・アップルトンは『景観の体験』という本で、
われわれ人間がある風景を見て、
美しいとか、好ましいとか感じる場合、
それはその風景に描かれている環境が、
人間にとって生存しやすい条件を
整えていることを見抜いてのことだという。
進士五十八・著『日本の庭園 造景の技とこころ』
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『 愛宕路 』
横山大観
仲田種苗園の先代はモミジを主力商品としました。そして、二代目社長は、植物も人も、この生き苦しい時代の中で、モミジの次にアカマツを主力商品に加えました。
仲田種苗園 玉川農場
1921年(大正十年)、53歳の横山大観が描いたものは、京都、愛宕山にある愛宕神社までの道のり。深まりゆく秋の一瞬。紅葉し落葉するモミジと常緑のアカマツ、どちらも欠けてしまっては成り立たない、美しい調和としかいえないような一瞬を、画家独自の表現で描きあげました。
(この時の横山大観は、日本の絵画業界と向かいあっていて、絵画作品に、流派や師弟関係を通して絵画を見るのではなく、絵画そのものを見るべきであるというという精神でした。)
この度、マツは扱いにくいという強迫観念をなくしたアカマツのモデルガーデンを鷹ノ巣公園に施工いたしました。
モミジを背景に、やや手を加えてはいるものの、秘密の実験も兼ね備えたアカマツのモデルガーデン。
お近くを立ち寄った際に、ご覧いただきましたら光栄です。
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英語のgardenはgan(ガード、囲い、防衛の意)と
eden(エデン、悦び、愉しみの意)の合成語だから、
端的にいえば安全で快適な世界ということになる。
文字の成立は、長い長い人間の知恵と思想の蓄積によるもので、
その意味は洋の東西で変わらない。
進士五十八・著『日本の庭園 造景の技とこころ』
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紅枝垂れザクラとモミジ
公式チャンネルはこちらです↓
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今日は、台風通過後の状況確認の為、鷹ノ巣農場へ赴きました。
場内の道には木々の枝が散乱し根回しをしたシャラやナラの木など数本が倒れていました。
今回驚いたのは根回しをしていない低木も倒されていた事でした。
台風の威力をまざまざと見せつけられました。
今年は、猛暑で異常気象も多く発生していますが、季節は移り変わり木々の葉も
色付き始めています。
災害の無い平穏な日々が続く事を切に願うばかりです....
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アオダモ、イロハモミジ、ニシキギ、ヤマツツジ、ナツハゼ、マユミなど。
雑木林の中で育成し、やわらかな樹形で人気を頂いています。
]]> 庭木用の斜幹モミジは得意です。陽を求めて斜めに伸びるような環境を整えて自然樹形を育成します。
一方で、端正な形のモミジは、樹高5〜6mを目標に育成しています。苗木の段階で、個性的な性質のものは庭木用に、素直な性質のものは高木用にと選別して、畑も別にします。私たち自身が、庭木用と高木用の育成方法や考え方を完全に切り替える必要があるからです。
高木用の畑では、枝が触れる程度の間隔で植えて、早く上に伸びるように競わせます。このやり方は、気を抜くと、頭部の葉が茂り、日が当たらなくなった下枝が枯れて無くなるので、毎年の頭部を中心とした枝抜き剪定が欠かせません。だいたい葉量の1/3は枝抜きします。
市場では希少といわれるイロハモミジの絶品、樹高5mクラスが100株。この秋、満を持しての販売開始です。
]]>
■高さ 10m 販売数 50
]]>現在、沢田農場近くの「白鳥の森」にて、畑で生産した苗木を「山上げ」して、ハッピーツリー(異種寄せ植え)や
ヤマボウシなどの自然樹形を育成しています。さらに、標高600mの鮫川農場にある山上げの試験区「ブナの森」で育成したアオダモが特有の斑紋や柔らかい樹形など「山採りと同等以上」という狙い通りの良好な成績を上げた為にブナの森を拡張。
この度、ブナの森や周辺のアオダモなどの里山木を沢田農場に展示しました。
近年にない最大の品揃えとなりますので、皆様のご来園をお待ちしております。
■里山木 アオダモなど
■ウメモドキ、コナラなど ■ソロ、エゴノキなど
■「極柔」ごくやわのイヌツゲ ■山上げ 白鳥の森
■山上げ ブナの森
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